途中で飽きてしまう

三十三間堂に行って来た。

車から入り口まで歩きながら、拝観料ケチなので、拝観料いくらなのかな、もしひとり3000円とかだったら、ひとりだけ入って見て来て、あとで報告すればいいよね、

などとぶつぶつ言いながら到着したら600円だった。無事二人で入ることができた。

実は、こういう観光スポットや、観光っぽいことをするのがすごく苦手だ。

長年の悩みだったが、今日拝観しながら、その理由がわかった。

神社ばかりでなく美術館や博物館に行った時も同じ気分になるのだけど、途中で飽きてしまうのだ。

今日も最初は、やる気満々(見る気満々)で見始めた。いくつか仏像を見て、その説明も一生懸命に読む、なんなら英語の方も(違うことがかいてあるかもしれないと思って)読む。

そんな読み方をしていると、三つくらい仏像を見るとなんとなく疲れてくる。

それでも「いやいや、まだ来たばかり・・・」と自分を奮い立たせて、辛抱強く見ていると、あくびが数秒おきに出始める。あくびが止まらない。

あくびのしすぎて涙があふれる、もうそこまでくると、全身外に出たい気持ちががいっぱいで、出口を探してきょろきょろしてしまう。もう出ようよ。

せっかく拝観料を払ったのに、早々に飽きてしまって外に出る。

せっかく拝観させてもらったのに申し訳ないような、ただ単に拝観料がもったいないような、とにかく残念な気持ちだった。

映画館も同じだ。映画は基本大好きなのだけど、見始めて30分たってもおもしろくならないような映画だと、席にじっとしていられなくなる。

一応まわりに気を配りながら、席を立つのに邪魔にならなそうなタイミングを見計らうのだけど、結局は「えいや」で席を立ってしまう。

以前は、健一くんとふたりで映画に行って、耳元でこそっと「じゃあ出るね」と行ってひとりで席を立つものだから、健一くんに「お願いだから、途中で居なくなるのやめて」と言われたものだ。

神社やお寺がニガテな理由がわかったら、ものすごくスッキリした。

飽きてしまうものは飽きてしまうのだから仕方がない。

健一くんは、拝観料を払った瞬間、そのあとは自由だからもういいんだ、と言っていた。すごくいい考え方だと思う。

それなら、「もらいもの」といっしょだと思った。

お片づけのお手伝いをしていると、もらいものをいつまでも捨てられない人がとても多い。

せっかくもらったのに捨ててしまっては、くれた人に申し訳ないとか、後になって、前にあげたあれはどうしたかと聞かれた時に返事に困るから捨てられないとか、そんな理由で。

もらったものは「もらう」という行為の中で、そのお役目はフィニッシュしているので、その後どうするかはもらった人が決めていいのだ。

三十三間堂は、1000体以上の千手観音像が立っている、まさに仏像の森の中に迷い込んだようなところだった。強烈な許しのパワーを感じた。

ある仏像を見た時に、一瞬すーっと目が合ったような気がした。その時に、今日来てよかったなあと、ふうっと気持ちが楽になった。

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誤魔化すのがたいへんだった