わたしの感情はわたしのもの
私の友人の話
人からひどいことを言われて傷ついたとメッセージがありました。
確かにそれはダメだよなと思うようなことだったので、そういう人からは距離を置いた方がいいねといったメッセージのやり取りをしていました。
その後、その友人からまたメッセージがあり、人の言葉に傷ついたのは、自分の中にそれを気にする気持ち、気にしないようにと蓋をしていたそんな気持ちがあるからだと気づいたと。だから、人の言葉で心が揺れたのだと。これからは、そんなことを本当に気にしない人間になれるよう努力する。
そんなメッセージでした。
私は純粋にすごいなと、そこに気づけるのは、その友人が苦労して学んできた結果だろうし、友人を中傷した人たちなんかより、ずっと人間ができている、そう思いました。
生きていれば、社会生活を送っていれば、色々と傷つくことも腹が立つ事も沢山あるし、そんな嫌な出来事はよくある事だと思います。嫌なことは避けたいと思いますし、傷ついたことで落ち込んだり、怒りが込み上げてきたり、悔しい思いをしたりすることがあると思います。そういう事を避けたいという気持ちも湧いてきます。
でも、その出来事はきっかけにすぎず、自分が何にこだわっていて、何を我慢していて、何を必要としていて、何を隠そうとしているのか、何が嫌なのか、何が好きなのか、そういう感情に触れたからこそ、そこが分かるのだと思います。
それこそまさに自分の価値観なのでしょう。
でも、それって、心揺さぶられる出来事がないと、平坦に生きていても、自分ではなかなか気づかないものだと思います。
そして、その価値観が本当に自分にとって必要なものなのか、真の自分を形作っている血肉の部分なのか、それとも、長い人生の中で沢山傷つき、腹が立って、悔しい思いをして、その結果身に付いてしまった錆のようなもの、皮膚についた垢のようなものではないのか。いや、それどころか、自分を守ろうと身につけた重たい鎧のようなものなのではないか、そういうことを考えるきっかけになるのだろうと思います。
その価値観が、本当に自分の血肉となる必要なものか、錆や垢のようなもので、削ぎ落とすものなのか、鎧のように脱ぎ捨てるものなのか、そんなことに気づかせてくれるきっかけをもらえたのだと思えば、悔しい思いや怒りも多少は収まるのではないでしょうか。
そう、私の友人がそうであったように。