年末の大掃除がニガテだ

年末がニガテだ

というか、年末の大掃除がニガテ

子どもの頃毎年くり返される一家総出の大掃除は儀式のようだった

すっきりした家で新年を迎えよう!

というロジックはわかる

気持ちもわかる

でも

寒いのよ

こんな時に窓拭きなんて

いやだーーーと全力で思っていた

問答無用で

家中の窓が開け放たれ

またたく間に家の中は外と同じ気温になった

もったいないからストーブ消そうか、という母の声が聞こえた

いや消さないで、せめてストーブくらい・・・と言いたかった

さらには、冷たい水に手をつけて雑巾を絞る

せめてお湯出して・・・と言いたかった

実際は、何も言えなかった

だまって窓を磨き、床を拭き、新聞を束ね、ゴミをだした

寒いからやだなぁとか

めんどくさいわぁとか

言えなかった。

言えないことが苦痛でもなかった

親が言えば

調子に乗ってそこに乗れたようにも思うけれどっかれたんだけど

ふたりとも言わなかったと思う、聞いた記憶がないから。

思ってもいなかったのか・・・それもわからない

やらなくてはいけないものの前で、それを否定するホンネは

大掃除という儀式のモチベーションを下げるものだと考えられ封印された、

意味がないことば、そんなところだろうか

今思い返すと

子供心に、思ったことを口に出すよりも

怒られないリスクを優先したのだと思う

同じことをやるにしても

寒い、めんどう、と言えたら、気持ちの我慢がない

さむいーと叫びながらやるとき、それは寒いからいやだではなく、いやだをいう感情を取り除いた状況を表す「寒い」に変化する

まだおわらないよ、めんどすぎるといえば、めんどくてやりたくないではなく、やりたくないを取り除いたたくさんある状況のみを表す

健一くんの実家を訪れるようになって

大きな違和感を感じたのはそこだと、ある時気づいた

ここにはなんでも言える空気があると

言っても言わなくてもいいし、それに応じてもいいし、応じなくてもいいい

思ったことを、忖度なく言える場所があるのは楽ちんなのだ

必ずしも、いつも正直に感情をださなくてはいけないとは思わない

ただ、言うと言わないを選択する自由があることを理解して、いつでも実行できたら安心だと思う

ああ、そう思うんだ・・・その人がそのままでいられる、受け入れられる

そんな場がいいなと思う

実家を出てから、好きな時に大掃除をやっている

気分がのった時に、突然いたるところを磨き始めるような、自由を勝手に発動している

仕事納めの後に、自宅をピカピカにする友達をみて、素敵だなと心から思うけれど

うーん、やっぱりもっとあたたかい時にやろう・・・

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ことしのクリスマスもケーキはありませんでした