観光よりも走る京都

滞在先の西陣の玄関の引き戸をガラガラと開けて、外に出た。「さむーっ」茅ヶ崎とは冷え方がまったく違っている。でも、今日は最終日だから、やっぱり走らなくちゃ。ふたり並べばいっぱいになりそうな幅の細い路地をできるだけ足音を立てないようにそっと歩いて、路地の両脇に立ち並ぶ家の住人たちの表札がかかった小さな門をくぐって表通りに出た。

昨日は金閣寺の方に行ったから今日は反対方向へ行こう。通りを下る。京都では、北に向かうことを上る、南に向かうことを下ると言うらしい。てっきり、上るはのぼる、下がるはくだると読むのかと思っていたら、思いっきり間違いだった。正しくは、あがる、さがると読むのだそうだ。覚えたばかりの言葉を使うのはとっても新鮮でうれしいけれど、わたしはきっとまた間違えて言っちゃうんだろうな。

まっすぐな通りを少しずつスピードを上げながらずんずん進む。空は綺麗に晴れていて、昨日より少しだけ暖かい。それだけで得した気分になった。毎日同じウェアで外に出るので気候を身体で直に感じられた。耳元で風がビューと鳴っている。丸太町通りを渡る信号が、渡る直前で赤に変わった。いつもより飛ばしていたからラッキーと思った。毎回思うのだけど、あえてスピードを落としたり歩いたりしなくても、わたしの体力に合わせて、いい感じで信号が赤になってくれている気がする。以前途中でトイレに行きたくてたまらなくなったランの帰り道は、近くに行くと信号が驚くほど青に変わった。全意識が下半身に向かい額には脂汗をかきつつも、神様ありがとうと思わずにはいられなかったことを思い出した。丸太町通りを渡り、おおよその行き先の方角を確認すると、あとは気分で曲がりたいと思った角を左に入っていくことに決めた。

京都の街なかを走る時は、この「テキトーに」角を曲がる感じがとっても楽しい。角を曲がって突き当たったところを道なりに進むとどんどん細い道に迷い込んでいくことがある。次第に道が狭くなって、両脇のおうちが迫ってくるように感じる。一瞬気を失って、目が覚めたら、室町時代に迷い込んでいるかもしれないと妄想しながら走る、どきどきする感じ、これが大好きなんだ。

角を曲がるとぱぁっと視界が開けた。二条城跡のお堀の横に出た。既に何人かのランナーの背中がお堀端の道で揺れていた。みんな薄着!みんなこの寒さに慣れているんだなと思った。顔の前をかき氷のような風がスーッと流れていった。

あー、気持ちいい。

記録のためでもなく、健康のためでもなく、ただ気持ちいいから走る、楽しいから走る。まったくがんばらないランニングがあったんだなあと、改めて思う。去年の夏まで、自分が走る人になるとは1ミクロンも想像できなかった。

旅先でのランは、さらに違うおもしろさを感じる。ランの時は、観光スポットを目指すことはあっても、お金を払って入場することはしない、ただ門の前を通り過ぎるだけだったり、ぐるりと周辺を回ったりするくらいで歴史の深いところに触れるわけではない。京都の場合だったら、歴史的な存在と今の暮らしが仲良く隣り合って存在していることでその場所が醸し出す空気を味わったり、観光スポットが点ではなく緩やかにつながる線で感じられたりすることで、その歴史への興味が強まることも多い。あられ屋さん、銭湯、かきもち屋さん、パブみたいなカフェ、織物屋さん、愉快な看板などなど、バスや電車ならきっと見落としていたものに気付くことができるし、立ち止まって写真だっていくらでも撮れる。ガイドブックに載っていないたまたま見つけたお店を覗いてお買い物だってできる。いつもの地図を虫眼鏡で拡大するみたいに対象の解像度があがる、そんな感じが楽しくて、毎回ランニングシューズやウェアをスーツケースのすみっこにぎゅうぎゅう詰め込んでいる。

今回の京都の初日、妙心寺の中を突っ切った時は肩のあたりを雪が舞っていた。スマホを手に握って地図を見ながら走るので、冷たさで指先がちぎれそうだった。昨日は、金閣寺から立命館を越えると上り坂に怖気付いて慌てて引き返した。最後に目指すは地元の人に美味しいと評判のあんこ屋さん。「おおきに、お気をつけて」お店のお兄さんが別れ際に声をかけてくれた。言葉が柔らかいなぁ。あんこと最中が詰まった紙袋を両手にいくつもぶら下げて、帰り道を走ったら重くてへろへろになった。こんな感じも大好き。

転勤族で育ったわたしは、何年同じ場所に住んでも、自分は偶然ここに迷いこんできたよそものだと感じてしまう。茅ヶ崎の前に東京には30年以上住んでいたけれども、都会っぽいものより田舎っぽいものに安らぎを感じた。きっとこれからどこに住んでも、わたしは「なんだかよそもの」なのだと思う。旅行先で、住む街で走る時、わたしはその場所にゆらゆらと癒される。走りながら見たり聞いたり感じたり考えたりしながら、その場所の風景の一部になりたいと思う。

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