誕生日に食べること

まるいバースデーケーキに真っ赤なイチゴと火の灯ったシュッとしたろうそくが出てきた時に、まさか、やられた、と思った。

こんな気遣いをする人では決してないと思っていたので、すっかり油断をしていたのだ。


レストランでバースデーのお客さんのために、一瞬照明が落ちて突然ハピバースデーの歌声がどこからともなく聞こえてくるおしゃれな演出、私はあれが苦手だった。遠くのテーブルで自分と関係がない人が祝ってもらっているだけなのに、すごく恥ずかしいんじゃないだろうかと勝手に想像して、ドキドキしていた。これまでの人生で、幸いそういうお祝いの経験なくて生きてこられるくらい、おしゃれさとはかけ離れた雰囲気を自分が醸し出しているのだと思うけれど、55歳のバースデーに、表参道の素敵なビルの10階にあるフレンチレストランで、夫はそんな仕掛けをしてきたのである。


オトナの雰囲気のレストランだけあって、私が危惧したようなことは起こらなかった。夫の満面の笑顔に、イチゴのケーキで「るるる〜」の音符を添えるように静かにケーキが運ばれてきた。丁寧だけど丁寧すぎない、このレストラン独特の心地よい提供の仕方と雰囲気で。ろうそくをふうっと吹き消す様子を動画で撮った後、レストランのサービスの方が「火がないと寂しいんです」とサッとろうそくに火を灯し直してくれた。夫と一緒に横に並んで写真を撮ってもらった時に、ふふふ、結構楽しい、と思った。ひょっとして、過去お店でハピバースデーを歌ってもらっていた人たちも、素直に楽しく喜んでいたのかもしれないと、自分の3回転半ひねりくらいの天邪鬼な想像に反省をした。


そもそも、30年前拒食症だったころ、食べることは恐怖だった。かといって食べないことにもストレスを感じていたし、食べない自分への周りの圧力が何より苦痛だった。当然、食べることが好き、という人が信じられなかった。食べることに比べると作ることは割と好きだったけれど、子どもが一人暮らしを始め、夫が食事を作ってくれるようになり食事作りから解放された時は、ひたすら嬉しかった。食べる担当になって何年かたつが、ここ1〜2年は、人生で初めて食べることがしあわせだと、心の底から感じられるようになった。食事の時間が待ち遠しかったり、外食に行くのがうれしくて行く前はソワソワした。夫が作ってくれる料理を食べながら、洗面器いっぱい食べられるなあ、毎日これ食べたいとよく思った。食べる楽しみが追加された人生は素敵だなと、心から思うようになった。


ブノワの食事はこれ以上ないというくらい美味しかった。ちっちゃな添え物のどれひとつをとっても、おうちでは作れそうもない。

しゅわしゅわ、ぱくぱく、もぐもぐ、サクサクシャキシャキ、ポロポロとろり、じゅんわり、しゅわわ〜ん。

わたしの口と顔は全力で美味しさを経験した。顔だけじゃなくて、全身の細胞が美味しさを迎えにきてくれているように感じる。

これ以上はないと思った。


デザートとケーキが来て夫がトイレに立ったとき、テーブルでひとりきりになり、ふと窓の外を見た。表参道から渋谷へ続く道路にカラフルな車のライトが小さくまるくにじんで見えた。ふわりと自分がどこにいるのかがわからなくなった。ほかほか焼き立てのホットケーキの上の黄金色のバターのように、自分の体がとろけてしまった。お昼に食べた白菜とサバの煮物の残り、帰ったら締めにあれも食べようと思った。

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